テレビは本当に捨てるべきか(前編)

スマホが浸透したことによって起きている時間のほとんどをネット接続前提で過ごしている。
それに伴って旧来のメディアの存在感が落ちてきている。
新聞、ラジオに至っては既にその存在感はかなり低下してしまっている。
これは各メディアへの広告出稿料を参照すればわかることなので、誰も異論はないだろう。
既存メディア最後の砦であるテレビはどうなのだろうか。
もちろん広告費は低下し続け、ネットへの広告費が上回り始めている。既にアメリカでは既に逆転しているし、日本でも数年のうちに逆転するだろう。

それに伴ってテレビなんて不要だ、捨ててしまえばいい、という説をネットでは定期的に見かける。

これは本当なのだろうか?

テレビの特徴

まずテレビの特徴を整理してみよう。

同時性同報性

同じ映像を同じ時刻に多くの人が視聴している、というのが最大の特徴だろう。
より多くの人に観てもらうためにはどうするかというと、当然その時間帯に一番視聴してるいる層をターゲットにして番組が制作される。
朝は出勤前のビジネスマン向けにニュースや天気予報、昼は主婦向けの昼ドラ、夜は家族で観られる音楽番組やクイズ番組というわけだ。

多くの人の生活パターン、趣向が同じならこれで良かったわけだが、さまざまな生活様式で趣向が多岐に細分化されてくると、この方式では立ち行かなくなる。

テレビ番組が想定しているステレオタイプなターゲット層が日本には存在しなくなってきている。

では、テレビがあることのデメリットを整理してみよう。

物理的な場所を占める

住宅の狭い日本においてテレビの設置面積は無視できない。
特に、最近のTVモニターは大型化してきていて40インチ、50インチが当たり前になっている。
もちろん薄型化が進んでいるが、それでもそれなりの場所は確保する必要がある。

時間の浪費

テレビがあるとなんとなくスイッチを入れてボーッと見てしまう傾向はないだろうか。
特に一人暮らしだと音がないと寂しいからと言った理由でついつけてしまいがち。
ただ、そうすると代わりに本を読む時間がなくなっていたりするので、注意が必要だ。

・思考のステレオタイプ

これが最も懸念されることだろう。
先ほど述べたようにテレビ番組はできるだけ多くの人に観てもらう必要があるため、マス向けに作られる。
インプットする情報がステレオタイプ化されたものであれば当然思考もそうなっていくので、コモディティ化されてしまう。

消費傾向のコモディティ化

テレビ番組の製作には億円単位の膨大なコストがかかるの一方、我々視聴者には直接課金されていない。
誰がコスト負担しているかというと、当然番組スポンサー。広告を出稿する企業だ。
それらの企業は番組をスポンサードすることにより、認知度を上げ、売上に繋げたいと考えている。
このためテレビ番組は視聴者が何かを消費してくれることを礼賛することになる。
もちろんあからさまに何かを買ってくれとはアピールしてこない。
もっとスマートに暗黙的に消費行動を促すことが多い。
最近はモノが売れなくなってきたので、何かを体験しようという意図に変化してきているがモノからコトに変わっただけで、消費行動を促すという点では今も昔も変わらない。

次回に続く。